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第四章 聖典の悪魔④

Author: 七森香歌
last update publish date: 2026-08-19 06:00:41

 エミルには一つ、誰にも言っていない秘密がある。彼女をこの王都礼拝堂に置き、導いてくれているマウロにも、彼女を気にかけ、事実上の庇護者となっているスフェルにも言ったことはない。

 エミルは三年前、それまでの記憶を失ったが、たった一つだけ脳裏に焼き付いている光景があった。

 記憶の中で、エミルは灰色の髪と濃茶の瞳を持つ十歳くらいの少年の腕に抱かれていた。右肩を矢で射られ、血を流す彼女を見て、少年は必死な顔で、姉さんと呼んでいた。

 少年が片手を宙に掲げると、双眸からすっと温度が抜け落ちた。瞳が色を変え、琥珀色の光を放つ。冬の夜空を圧倒的な冷たい美しさを帯びて煌めく何かが埋め尽くす。エミルはぼやける視界でそれを見上げながら、少年の名を叫ぶ。

「――!」

 エミルはその少年を何と呼んだのか覚えていない。彼女の中に残り続けているこの僅かな記憶はここで終わっている。これが何を意味するものであるか、彼女にはわからない。

 少年は、エミルのことを姉さんと呼んだ。記憶を失う前の自分には弟がいたのかもしれないと彼女は思う。彼はどうなったのだろう。生きているのだろうか。マウロやスフェルにこの少年について尋ねれば、何か教えてくれるかもしれないとは思うが、彼女は何となくこのことについては、誰にも言わない方がいいような気がしていた。

 スフェルがお忍びでエミルの元を訪ねてきてから数日が経った。エミルは、マウロが礼拝堂の門前に何か貼り紙をしているところに出くわした。

「神父様、そちらは何ですか?」

 次のミサのときに開催する予定のチャリティーバザーの告知か何かかと思いながら、エミルはマウロの手元を何気なく見やった。視界に飛び込んできた情報に、エミルは苔色の双眸を見開き、静かに息を呑んだ。

「指名、手配……?」

 その貼り紙に描かれていたのは、エミルの記憶に焼きついた、あの少年と瓜二つの似顔絵だった。似顔絵の下には「悪魔の祝福を受けし『災いの子』イーシュ・エルフェン」と書かれている。

「ええ、レシェールから回ってきたものでして……現在、王国全土の礼拝堂や施療院など、すべての教会関連施設に同じものが回っているはずです」

 思わず呟いたエミルの言葉に、手を止めてマウロは頷いた。彼女は言葉と表情に感情が現れないように努めながら、淡々と問うた。

「その少年は……何をしたんですか?」

「それは……」

 マウロは言いにくそうに言葉を濁した。しばらく言葉を探して逡巡していたが、マウロは諦めたように溜息をついた。吐き出された呼気が冷たい空気に霧散して消えていく。

「……いいでしょう。スフェル殿下からは止められていましたが、私が知る範囲のことはお話ししましょう。どのみち、あの日の事件について、いつまでもあなたに隠し通すことは難しいでしょうし、何より知る権利があるでしょうから」

 中でお話しします、とマウロはエミルを促して、建物の中へと入る。寒空の下、風でぱたぱたとたなびく中途半端に貼りかけた手配書に描かれた少年――イーシュの焦茶色の双眸が静かに少女を見送っていた。

 エミルはマウロの居室へと通され、椅子を勧められた。自身も質素な木製の椅子に腰を下ろすと、まだどこか躊躇うようにマウロは言葉を紡ぎ始めた。

「エミル。三年前、あなたがスフェル殿下に保護された前の晩に『フィエロの悪夢』と呼ばれる事件があったことは知っていると思います。あなたがこの事件の関係者である可能性は状況を鑑みると非常に高かったのですが、施療院で目覚めたとき、あなたは一切の記憶を失っていました。そのような状態のあなたを無理矢理問い詰め、負担をかけることをスフェル様は厭われました。この事件の捜査があなたに及ばないように遠ざけ、ここで静かに暮らせるように計らってくださったのです」

 エミルは相槌を打つ。ここまでは彼女自身も知っている話だ。

「ところで、あなたは聖典の悪魔についての記述を覚えていますか?」

 今の話と何の関係があるのだろうと思いながら、この三年で暗記するまで読み込まされた聖典のページをエミルは頭の中で繰る。何とかそれらしき一節を脳内から引っ張り出し、

「『神の御名の下にその身を滅する』……でしたよね?」

「ええ、そうです。ここからは聖典に詳しいことは記載されてはいませんが、この世界には時折『悪魔の力』――人智を越えた異能を持つ者が現れます。そういった者たちは、悪魔の祝福を受けた眷属とされており、この世界の安寧を脅かす存在だといいます。先程の手配書の少年は『悪魔の力』のうちの一つである、鋼の雨を降らせる異能の持ち主――通称『災いの子』です」

「その少年の異能があの事件にどう繋がるのですか?」

「当初、『フィエロの悪夢』は大規模な盗賊団の襲撃によるものとされていました。それがあの事件の発端であるのは、少なくとも間違いはなさそうとのことですが……事件の起きたフィエロ村では、血溜まりの中に村人と盗賊の区別もなく死体が折り重なって倒れており、地面には無数の鋼の欠片が突き立っていたということです。村人にも、盗賊にも生き残った者は誰もいませんでした」

 わずかに残った記憶の断片と今しがたマウロが口にした光景がエミルの頭の中で少しずつ繋がり始める。

「この件には、当時王都に滞在していたというレシェールの大司祭が強引に割り込み、調査の指揮を執りました。その結果、フィエロ村で『悪魔の力』が使用された形跡が発見されました。その後、国内各地で時折、同様の力が使用された痕跡が見つかるようになり、その度にレシェールから捜索部隊が派遣されました。そうして足取りを追い続けた結果、あの手配書の少年へと行き着いたのです」

 マウロは一度言葉を切ると、深く息を吸った。

「『悪魔の力』は人間には過ぎた力であり、我々はその存在を見過ごすことはできません。彼らの持つ『悪魔の力』は、野放しにしておくには非常に危険だからです。ですから……」

「だから……殺すんですか?」

 エミルは淡々とした低い声でマウロの言葉を遮った。直接的な彼女の物言いに老年の神父は鼻白む。

 聖典の上では、『悪魔の力』を持つ者たちの辿る末路については明記されてはいなかった。しかし、教会が危険視する彼らを追い、”滅する”というのであれば、ある程度想像はつく。

 マウロとエミルの間に沈黙が流れた。冷ややかなエミルの視線に耐えかね、マウロは、ええ、と頷いた。エミルの彩度の低いグリーンの双眸には、その姿がいつもの優しく人々に教えを説く神父ではなく、神の導きを待つ弱々しいただの一人の老人であるかのように映った。

「それが……世界の安寧を守るために必要だという……神の教えですから」

 掠れた声でそう言ったマウロの瞳は、微かに迷いの色が揺れていた。

 エミルはもう、何も言わなかった。

 夜の礼拝堂に月の光が差し込んでいた。

 白い光を受けて浮かび上がるステンドグラスには、涙を流しながら一心に祈る乙女――神セレーデが世界に最初の救いをもたらしたときの姿が描かれている。

 エミルは、手燭を携え、深夜の礼拝堂を一人で訪れていた。静けさと闇の降りた空間に蝋燭の小さな炎が揺れる。

 エミルは昼間、マウロから『フィエロの悪夢』と『災いの子』についての話を聞いた。唯一記憶に焼き付いていたあの光景は、事件のときに弟である少年が異能を発動させたときのものだったのだと理解した。

 『悪魔の力』を持つ者は殺される――その事実がエミルの胸に重たい影を落としていた。異能の力を発動させることで、命からがら逃げ出したはずの少年は、教会によってどこまでも追い回された上で殺されるのだという。ひどく恐ろしい目に遭ったであろう少年に対して、あんまりな仕打ちだと彼女は思った。人智を超えた力を放置するのは危険だという理屈はわかる。しかし、過去の彼女同様、きっと彼も多くを失ったというのに、唯一残された生きる未来すらも奪うなんて残酷すぎる。

 かつて、神ではなく、王族とはいえ人の身であるスフェルによって、エミルは救われた。なのに、神は哀れな少年を救ってはくれないというのだろうか。未熟な人の手にできることを神はしてはくれないのだろうか。

 イーシュ、と少年の今日知ったばかりの名前をエミルは心の中で呟く。

 誰か彼に救いのある未来を与えてください、と彼女は人気のない深夜の礼拝堂の片隅で祈りを捧げた。

 この先の彼が幸せに生きていけるのであれば、この願いを聞き届けるのは神でも悪魔でも構わないとエミルは思った。

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